• 言語
  • 文字サイズ
  • 標準
  • 特大

歴史・文化施設

玉代姫勝世姫像

玉代姫勝世姫像

小川原湖伝説
今から1300年ほど昔、都に橘中納言道忠公という貴人がおりました。道忠公には二人の美しい姉妹がおり、幸福に暮らしていました。
ある日のこと屋敷を賊に襲われ、重臣を失った道忠公は、世の無常をはかなんで都から姿を消したのでした。姉妹はけなげにも父のゆくえを探す旅に出たのでした。
新堂織部と駒沢佐京之進を供に従え、諸国を巡り探し歩いたがゆくえは知れず、やがて北の果てにある湖のほとりに辿り着きます。
しかし、その地で姉妹は父がすでに亡くなっていることを知り、やがて姉妹も後を追うように湖に身を投げるのです。
それ以来、姉の玉代姫が身を沈めた湖を「姉沼」と呼び、妹の勝世姫が身を沈めた湖を「妹沼」(現在の小川原湖)と呼ぶようになりました。
一方、「姉沼」に着いた左京之進は玉代姫の霊と沼を守るためこの地にとどまり、また、勝世姫を探していた織部は姫が身を沈めた沼にたどりつくと、勝世姫の仰を受けて、その沼の奉行となり、そこに住みつきました。
その後、姉妹は父の居る沼崎へと通われ、三尊仏となられたという。そして、今でも、仲の良い姉妹を象徴するように2つの湖はひっそり寄り添っているように見え、それぞれの湖のほとりに玉代姫は「姉戸大明神」勝世姫は「廣沼大明神」その真ん中には橘中納言道忠公が「沼崎観音」として祭られることになったのです。
現在、小川原湖畔には八甲田の恵みを仰ぐ玉代姫の姿と、湖の安全と幸せを祈る勝世姫の姿像が建立され、訪れる人々に姉妹の優しい思いを今に伝えています。
また、小川原湖伝説を舞う県無形民俗文化財に指定された沼崎本村の「念沸鶏舞」は、そんな悲しい物語りで綴られる小川原湖伝説の供養が起源と言われております。

沼崎観音堂

沼崎観音堂

県道8号線を南下、本村集落の南側斜面中腹にある神社で、小川原湖伝説に伝わる姉玉代姫・妹勝世姫が探した行方不明の父橘中納言道忠公が祀られているとされる観音堂は、由来は不肖であるが、『御領分社堂』(成立宝暦の頃)に「沼崎村観音堂、六尺四面、萱ぶき、別当三右衛門」とあることから、創立は1750年代以前と思われる。
この観音堂は、七戸作田親山社の神社から始まる七戸南部三三番補陀楽の一つで、三二番の札所として巡拝され、広く名の知れた御堂である。

広沼大明神

広沼大明神

小川原湖ふれあい村の奥に隣接し、小川原湖伝説に伝わる『妹勝世姫』を祀る神社で小川原湖(妹沼)を北方に見下ろす明神岬にある。
『御領分社堂』(成立宝暦の頃)の記録によると「広沼明神御宮 五尺、六尺五寸 板菱・・・・・別当三右衛門」と記録されていることから沼崎観音堂と同年代の創立と思われる。
平成10年1月1日の火事で現在の神社に再建された。

姉戸大明神

姉戸大明神

小川原駅から県道8号線を2キロほど南下した所、道路左側に姉戸大明神への案内看板がある。小川原湖伝説に伝わる「姉玉代姫」を祀る神社として姉沼を南方に見下ろす小高い丘の上にある。以前は米軍施設の中にありましたが、昭和45年に今の場所に再建されたもので、御神体は石身体である。

東北町歴史民俗資料館

東北町歴史民俗資料館

[小川原湖の四季]では小川原湖の成立ちや動植物を紹介、[東北町のあけぼの]・[東北町のあゆみ]では遺跡から発掘された遺物を展示、[先人記念コーナー]では、明治の文人大塚甲山氏、当町出身の代議士・森田重次郎氏、米内山儀一郎氏の功績を紹介、[くらしと伝統文化のコーナー]では昭和初期の民家を復元展示とテーマごとに分けて東北町を紹介しています。

日本中央の碑歴史公園

日本中央の碑歴史公園

『日本中央の碑』を展示する保存館と、『つぼのいしぶみ』にちなんで詠まれた歌碑、句碑を展示公開しています。入場料は無料です。

日本中央の碑

日本中央の碑

悠久のロマンに委ねる『つぼのしぶみ』の由来する『日本中央の碑』は、昭和24年6月21日、東北町内を流れる赤川上流の石文集落近くで発見された1.5mほどの自然石です。平成元年12月7日東北町有形文化財第1号として指定されました。現在は、『日本中央の碑保存館』に展示公開されています。

日本中央の碑 発見場所

日本中央の碑 発見場所

千曳駅から県道8号線を約1km乙供駅に向かった地点、駐車場より20m程階段を下った所に日本中央の碑の発見場所があります。

親巡蹟

親巡蹟

県道8号線沿いの千曳集落のはずれの小高い丘、旧奥州街道(上道)にある碑で、明治天皇が東北御巡幸を行った際、明治9年7月13日野辺地町へ行かれる途中、東北町石坂のお野立所でご休憩された地を記念して昭和6年7月23日に建立されました。

新舘八幡神社

新舘八幡神社

八幡集落の県道121号線沿いにある、『新舘八幡神社』。言い伝えによると1191年南部の始祖南部光行公が甲州巨摩郷により、その氏神である正八幡宮を瀧沢村(現十和田市)に遷したが、その後光行の三男七戸太郎三郎朝清が1199年分霊して新舘に創建したという。
江戸時代、南部藩の厚い尊敬を受けた事を示す歴代藩主の棟札が多数存在している。そのため、社領10石を与えられ、七戸地方民の尊崇の的であった。 江戸時代には、流鏑馬の神事も行われ、八戸櫛引八幡宮流鏑馬の神事にも同社から参加するのが常であった。

TOPへ戻る